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横浜中華街をもっと知ろう〜中国に関する豆知識〜

観光

横浜中華街に来たらまずはココ!はじめての観光で訪れたいスポット

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横浜中華街を歩くと、黒船の来航をきっかけに日本の近代化が進み、発展するなかでの苦労と意気込みを伝えるモニュメントなどを見かけることがあります。
繁栄や復興のシンボルともいえる、横浜中華街ならではのエピソードをご紹介します。

横浜中華街の入り口に牌楼が立っているのはなぜ?

横浜大空襲で焼け野原になってしまった横浜中華街。1955年、復興への願いを込めて、中華街大通りの入り口に牌楼(ぱいろう)が建てられました。牌楼とは、中華文化の象徴する建築様式を用いた門の一種で、いわゆる屋根付き門のことです。
中華街大通りの入り口に建てられた牌楼には、「中華街」と刻まれた銘板が掲げられました。これにより、それまで「南京町」や「唐人街」と呼ばれていたこの地区は、「中華街」という名称に統一されるようになります。そして1989年の改修の際、銘板に「親仁善隣」が加えられ、名称が「善隣門」と改められました。

風水思想に基づいた4基の牌楼

中華街には、善隣門のほかに合計10基の牌楼が建てられています。そのうち4基は、横浜中華街の東西南北に位置して、風水思想に基づいて地域内の繁栄の安全を図ろうとしたとされています。
東:朝陽門(ちょうようもん)
青龍神を守護神とするため、青色が用いられています。2003年に落成したこの門は、横浜中華街10基の牌楼で最も大きなものとなっています。
西:延平門(えんぺいもん)
白虎神が守護神で、白色が用いられています。
南:朱雀門(すざくもん)
朱雀神が守護神で、赤色が用いられています。
北:玄武門(げんぶもん)
玄武神が守護神で、黒色が用いられています。
このほか、JR石川町駅を出てすぐのところに西陽門、関帝廟通りの東側に天長門、西側に地久門。そして、市場通りに2基、市場通り門が建てられています。

関帝廟が真っ先に再建されたのはなぜ?

1923年の関東大震災と1945年の横浜大空襲で、関帝廟(かんていびょう)はいずれも灰燼に帰すほどの大きな被害を受けたにもかかわらず、すぐに再建されました。それほどに、関帝廟は横浜中華街にはなくてはならない存在でした。
その背景には、三国志でも知られる有名な武将、関羽(かんう)の存在があります。関羽は、悲劇的な死後に神格化され、「関帝
と呼ばれて信仰の対象となりました。そろばんを発明したともいわれているため商業の神として祀られ、特に世界各地へ渡った中国出身者のあいだでは心のよりどころとされました。
横浜中華街も例外ではなく、1862年の横浜新田の埋め立てが終わった時点ですでに小さな祠(ほこら)が建てられ、木の関羽像が安置されたという説が、関帝廟の起源として有力です。本格的に開廟されたのは1871年で、その後何度かの改修を経るごとに立派な建物となっていきました。
現在の関帝廟は4代目。1986年に消失した後、2年もの工期をかけて1990年に完成。中国から伝統的な技法を知る工匠を招いたり、3.5kgにもおよぶ金箔を用いたりと、横浜中華街の人たちが威信をかけて建て直したからこそ、今もその輝かしい姿を保っているのです。

もうひとつの横浜中華街のルーツ「居留地135番地」って?

横浜中華街には、もうひとつ発祥の地と呼べる場所があります。それは「居留地135番地」です。
居留地として外国人の入居が始まった当初、開墾された一帯にはまだなんの建物もありませんでした。その地に1863年に建てられたのが同済病院です。これは中国出身者たちが出資して作った施設で、契約書に記された番地が135番地だったのです。
関東大震災、そして横浜大空襲と被害を受けたこの地は、1960年になってようやく山下町公園として再整備がなされました。會芳亭(かいほうてい)と名付けられたあずまやが建つ公園は、横浜中華街の人だけでなく、訪れる人たちも安らげるスポットになっています。

歴史に想いを馳せるのも楽しみのひとつ

横浜中華街を訪れる目的といえば中華グルメかもしれませんが、横浜中華街を残してくれた先人たちの想いが伝わるスポットに立ってみることもまた、すばらしい体験になるに違いありません。
150年もの歴史の足跡をたどりながら、観光の合間の休憩を文化的な雰囲気に浸りながら過ごすのも、横浜中華街の楽しみ方のひとつといえるでしょう。

参 考

  • 牌楼(門)について|横浜中華街
  • 同じ場所でずっと町を見守る「関帝廟」|横浜中華街
  • 135番地には何かがある!?|横浜中華街
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