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2016.07.12

横浜出身の偉人、岡倉天心とは何をした人なのか

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横浜出身の有名人と聞いて、皆さんは誰を想像するでしょうか。
最近の方だと俳優の浅野忠信さんや米倉涼子さん、SMAPの香取慎吾さんなど横浜出身者は多方面で活躍中です。でも歴史上の人物だと名前は知っていても、何をした人なのかまではあいまいですよね。今回は、そんな偉人のひとりである岡倉天心をご紹介します。

横浜で生まれ、幼少期を過ごす

岡倉天心は1863年、元越前福井藩士で生糸の輸出業を営む石川屋、岡倉勘右衛門の次男として、現在、横浜市開港記念会館が建っている場所付近で産声をあげます。本名は岡倉覚三(かくぞう)と言ったそうです。
天心が9歳のとき、妹てふを出産した母このが亡くなるという悲しい出来事が起こります。このの葬儀は、横浜開港当時に神奈川宿にあり、オランダ領事館が置かれた長延寺(現在は緑区に移転)で行われます。
その縁からか、幼い天心は長延寺に預けられ、ここで漢籍を学びます。ちなみに漢籍とは、漢文で書かれた中国の書籍のこと。横浜港が開港したのは1859年。開港間もない横浜には異文化がどっと押し寄せ、急速にさまざまなモノやコトが変化していったときに子ども時代を過ごした天心は、さまざまなものを吸収したのでしょう。アメリカ人宣教師のジェームス・ハミルトン・バラの塾で英語を学ぶなどしながら、今でいうグローバル人材としての素地を持つ人間に成長していきました。

天心、古美術に目覚める

1875年、東京開成学校に入学(現在の東京大学)。その2年後に文学部に籍を移した天心は、外国人教師であるアーネスト・フランシスコ・フェノロサに出会い、政治学などを学びます。
アメリカの東洋美術史家、哲学者であったフェノロサは、日本美術を高く評価し、海外に紹介しようと努めたことで知られる人物です。1890年に帰国しますが、フェノロサの遺志により、滋賀県大津市の法明院に遺骨を分骨したというエピソードは日本への深い愛を感じますね。
天心は、日本美術に傾倒したフェノロサの通訳として行動を共にするようになります。
そのフェノロサへのサポートと通して古美術への関心を深めた天心は、東京大学を卒業後に文部省へ入り、美術行政に携わることになります。特に注目したのが伝統的な日本美術です。
当時の日本では神仏分離令によって、仏像などが破壊される事件などが起きていました。全国の古社寺調査を行ったことで現状を知った天心は、日本美術を守るために働くことを決意します。

文化財の保護に貢献

1886年、天心は報告書「美術保存ニ付意見」を執筆。文化保護について最も早く適切な提案をしたものとして高く評価されています。また同年にフェノロサと欧米各国を視察して回り、帰国後には東京美術学校(現在の東京芸術大学)を開講しようと働きかけます。27歳のときに東京芸術大学の校長に就任してからは、横山大観、下村観山ら気鋭の作家を育て、近代美術の発展にも貢献しました。
また、1889年に帝国博物館理事・美術部長に就任してからは、全国的な文化財調査、保護活動を本格的に始動させます。天心の発案した「現状維持修理」は、今日の古美術保存の基礎となりました。ニューヨークで「茶の本(英語版)」を出版し、日本の文化を世界に広めることにも尽力します。
横浜を離れていた天心ですが、それでも横浜とのつながりは途切れません。横浜市本牧にある三溪園を造った原富太郎とも交流が深く、原に日本美術の魅力を伝えたのも天心だったと言われています。

記念碑は横浜市開港記念館のそばに

美術史家、美術評論家として精力的に活躍した天心。生誕の地には横浜市開港記念館が建ち、建物の脇に記念碑が残っています。
付近を歩くときは、ここで偉人が幼少期を過ごしたことを少しだけ思い出してみてください。

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